辻元清美さんは現在立憲民主党に所属する参議院の国会議員(立憲民主党代表代行)として日夜国民のために尽力されています。幼少期から苦労を重ねられ貧困を許さないという思いはどの政治家よりも強いものがあります。今回はそんな辻元清美さんの生い立ちや学歴についてできるだけ詳しく調査してみました。ぜひ最後までお読み下さいね
辻元清美の生い立ち
辻元清美さんってどんな人なの?
それをこれからわかりやすく説明して行きますね
辻元清美(つじもときよみ64歳)さんは参議院議員(立憲民主党)として日夜国民のために粉骨砕身努力されています。
辻元清美さんが生まれたのは奈良県吉野郡大淀町です。
辻元清美さんのおじいさんは大平洋戦争の時にパプアニューギニアにあるブーゲンビル島で戦死。
そのためお父さんは15歳で丁稚奉公に出てその後大阪の船場(金融、薬、繊維、輸入雑貨など多くの問屋で反映している街)で洋服店をやっていましたが、当時の不況の波に呑まれてお店はあえなく倒産してしまいます。
この頃の辻元清美さん一家は両親と弟の家族4人が六畳一間で暮らし、もちろん家には風呂もない極貧生活でした。
洋服屋さんに失敗したお父さんは今度は立ち食いうどんの店を始めます。
しかしこれもあえなく失敗して借金は増えるばかりでした。
お父さんは家族のために身を粉にして一生懸命働きましたが、報われませんでした。
でもおとうさんは頑張り屋さんだったことは間違い無いですね、いくら商売に失敗してもめげないタイプだったそうです。
引っ越しも小学校6年生まで19回もしているそうです。
こういう経験を積んでいるだけに後に辻元清美さん政治家として掲げている「貧困を許さない」という思いが生れたのでした。
辻元清美さんは幼少期に極貧の辛い生活が続いたため政治活動においても世襲議員とは対局の庶民出身の議員で庶民のつらさというものを身を持って体験しているのです。
そのために世襲議員に対する思いは辛辣なものがあります。
「だから、偉大なお爺ちゃん(岸信介、吉田茂)を誇らしげに語る安倍総理や麻生副総理には、ムカッとする。私の祖父を「赤紙1枚」で犬死にさせたんは、誰なんや。父は泣きながら奉公に出ました。一家の大黒柱が戦死すると、庶民の家は3代にわたってどん底に陥る。私が国会で「戦争をさせない」「貧乏を許さない」と叫び続けるのは、祖父の戦死と我が家の貧乏が、政治運動の原点だからです。」
引用:FACTA
辻元清美生い立ち:辻元清美の学歴
ここでは辻元清美さんの学歴や学生時代のエピソードなどを紹介したいと思います。
辻元清美さんは幼少期から引っ越しを繰り返したため小学校も随分転校を繰り返しているのです。
最初に入学したのは堺市の三国ヶ丘小学校でした。
それから転校を繰り返し、大阪市内の大淀町立桜ヶ丘小学校、高槻市の高槻市立如是(にょぜ)小学校、大阪市立愛日(あいじつ)小学校(この小学校は現在廃校となっています)へと学校を変わりました。
この間にお父さんの経営していた洋服店も倒産します。
辻元清美さんはそうして家計が苦しくなると奈良の親戚の家に預けられてしまいます。
小学生でありながら親元から離されて随分と辛い思いをしたことでしょうね。
そんなことが続いたために辻元清美さんは一時期不登校になったこともあったそうです。
でも如是小学校の担任だった先生のおかげで何事にもポジティブに思えるようになったそうですね。
そして塾に通えない辻元清美さんは教科書を丸暗記して試験に挑んだところそれからはオール5を取るようになったということです。
小学校の先生が教え子に与える影響は大きいものがありますね。
僕も小学校5年生の時に思いっきり担任の先生に往復ビンタを食らったことがありますが、その先生とはいまでも年賀状のやりとりをしています(^_^)。
その後お父さんはうどん屋もやりますがこれも失敗します。
こうして辻元清美さんの小学校時代は本当に極貧生活を送っていたのでした。
辻元清美さんが卒業した中学校は国立の共学校、奈良教育大学付属中学校(偏差値62)です。
この中学校は戦後間もない1947年に創立されています。
奈良県内の進学校としても有名です。
引っ越しを繰り返した辻元清美さんは小学校を卒業すると再び奈良に戻りこの中学校に入学したのです。
中学校を卒業した辻元清美さんは今度は「奈良教育大学教育学部付属高校(偏差値62)」です。
この高校も1947年創立で3クラスのみの小規模高校ですが進学校として有名で難関大学へ進学する生徒も少なくないということです。
余談ですが将棋で有名な「藤井颯太」さんもこの高校に入学していました。
辻元清美さんも一般受験でこの高校に入学しているのです、辻元清美さんは小学校の時から学業は良くできたのですね。
この高校時代の情報はほとんど無くて部活などをやっていたのかは不明です。
辻元清美さんは高校卒業後大学への進学資金を貯めるために2年間デパート勤務で大学への進学資金を貯めたそうです。
辻元清美生い立ち:辻元清美の大学時代
いやあ、本当に苦労人ですね、頭がさがります。
こうして苦労を重ねた辻元清美さんは2年後に見事早稻田大学教育学部へと進学を果たしました。
これまでの苦労が徐々に報われて来ましたね。
これだけの難関校に自分で学費を稼ぎ自分の実力で進学したのですからね。
この大学時代3年生の1983年に辻元清美さんは仲間たち4人と一緒に国際交流を目的としたNGO団体「ピースボート」を立ち上げてその行動力が注目を集めました。
辻元清美さんがこの団体を設立した目的は第二次世界大戦時に旧日本軍がアジアを侵略したという思いがあり、船で世界中の人々と交流を重ねて地域紛争や、核問題、貧困問題などを話し合うということが目的でした。
当時これは非常に珍しい企画でメディアからも大きな注目を集めました。
辻元清美さんは政界入りする1996年までこの企画に加わっており、延べ2万人もの学生が参加し、60ヶ国以上を訪問しているのです。
辻元清美さんたちが企画した理念はその後も後輩たちに受け継がれて現在も3~4ヶ月の船旅が毎年行われているということです。
学生時代には辻元清美さんもこう言った活動が忙しく大学を卒業するまで、6年の年月をかけて卒業しました。
決して学業も諦めることはなかったのですね。
大学卒業後は辻元清美さんは就職することなく、政治活動に勤しんで来ました。
今回の衆議院総選挙では過去最多の73人の女性議員が誕生。立憲民主党からは各党の中で最多の30人が当選しました。ジェンダー平等社会に向けた政策提言を、より進めていきます。
そして、選択的夫婦別姓制度に超党派で取り組み、実現を目指します。今度こそ!! pic.twitter.com/Xe6jV0rM67
— つじもと清美 (@tsujimotokiyomi) November 13, 2024
辻元清美生い立ちのまとめ
辻元清美さんは現在64歳、これまで政治家として長年にわたって国民、それも底辺で生きる人々のために尽くして来られたのです。
自身の生い立ちのなかで多くの苦労を重ねられ、政治家の世襲に対しても鋭い批判を浴びせているのです。
また辻元清美さんの総理大臣に対する質問時の「そーり!」「そーり!」「そーり!」と逃げ腰の総理大臣に対して鋭く食い下がる姿は今では語り草になっているほどです。
これまでにも歴代総理大臣12人に鋭い質問を浴びせ、国会質問300回以上、質問主意書254本という数字を誇っています。
辻元清美さんの国会における活躍は党派を超えて国民の命と暮らしをまもって来ました。
国体委員長として国会を動かし庶民の味方として活躍されて来たのです。
辻元清美さんは1993年に「エイボン女性大賞教育賞」を受賞しています。
1996年に辻元清美さんは「第41回衆議院議員総選挙」で見事初当選を果たし以後、国民のためにその手腕を遺憾なく発揮してくれることになるのです。
また大阪のIRにも反対されおり、大阪の発展をIRのような博打を国の成長戦略にするのは間違っているとの意見をもっています、私もその通りだと思います。
このように辻元清美さんは常に弱い人々の立場に立って政治というものを考えてくれているのです。
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これからの政治活動にも大いに期待したいですね。
最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました。
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