カルーセル麻紀の若い頃は徹底的に差別や排除された苦難の時代だった

タレント

カルーセル麻紀さんという女優さんがいらっしゃいます。年配の方なら知らない人はいないくらいに男に生れたけれど女性として生きてきた芸能人なのです。今回はそんなカルーセル麻紀さんの若い頃からの人生を探ってみたいと思います、この記事を読み終える頃にはきっとあなたもカルーセル麻紀さんの生き様に深い感銘を受けずにはいられないでしょう。ぜひ最後までお読み下さいね。

カルーセル麻紀の略歴

カルーセル麻紀(かるーせるまき)さんは1942年(昭和17年)生れの81歳です。

職業はニューハーフタレントで出身地は北海道釧路市、本名を平原徹男(ひらはらてつお)と言います。

所属事務所は株式会社「オフィスカルーゼル」となっています。

当時の日本は大平洋戦争が始まってからまだ2年目に入ったばかりの年でした。

カルーセル麻紀さんのお父さんはとても厳格な人で戦時中という世相も相まって、アメリカやイギリスの敵国と「徹底的に闘う」という意味を込めてお父さんはカルーセル麻紀さんに「徹男」という名前を付けたのです。

だがしかし、カルーセル麻紀さんは物心ついた幼少期から女の子が大好きで趣味嗜好が女の子そのものだったのです。

そんな訳で近所の子供達からは「女になりかけ」といって随分といじめられたことが沢山ありました。

それでもカルーセル麻紀さんは自分の気持ちが変わることはありませんでした。

これはカルーセル麻紀さんにとっては持って生れた本能だったんですね、だからどうしようもなかったのです。

とはいえ、心の中では「僕はこのままでいいんだろうか?」という自虐的な気持ちもあったことは確かなようです。

そのような小学生時代をすごしたカルーセル麻紀さんは釧路北中学校に通っていた14歳の時に図書館で偶然「三嶋由起夫」の小説を読み同性が愛し合うこともあるというものがあることを知ります。

そして同時期に「麗しのゲイボーイ」として当時一世を風靡していた「丸山明宏」(現・美輪明宏)の存在を知るようになったのです。

こうして丸山明宏さんを知るようになったことはカルーセル麻紀さんのその後の運命に大きな影響を与え、じぶんの人生を決めるきっかけとなって行ったのでした。

 

カルーセル麻紀の若い頃

カルーセル麻紀さんは中学校を卒業すると地元の北海道立釧路北陽高等学校に進学しました。

しかし、自分をどうしても認めてくれないお父さんに反目して高校を中退して高校1年生の時に家出をしてしまいます。

そして札幌市に住居を構え、年齢をごまかして市内のゲイバーに就職して働き始めたのです。

そこではカルーセル麻紀さんは水を得た魚のように一生懸命働いたのでした。

それだけでは満足しなくなったカルーセル麻紀さんはもっと広いゲイの世界を知るためと自分磨きのために全国各地のゲイバーに勤めるようになったのです。

ゲイバーだけでなくその他のショーパブやキャバレーなどを転々とするようになったのです。

そして19歳になったときに大阪のゲイバー「カルーゼル」にたどり着きます。

このバーに勤めたことによりカルーセル麻紀さんはますます自分の生き方に自信が持てるようになって行きました。

そうして1963年(昭和38年)にカルーセル麻紀さんは芸能界にデビューします。

1968年の25歳になったとき日本コロムビアから楽曲「愛してヨコハマ」で歌手デビューまで果たしました。

当時の芸名は「麻紀」でしたが、日劇ミュージックホールに出演する際に名前が短すぎると言われ、勤めていた店の名前から「カルーセル麻紀」と芸名を改めたのです。

この名付け親は放送作家の「新野新(しんのしん)」さんでした。

その後のカルーセル麻紀さんの芸能活動は順調に推移して行き、テレビにもどんどん出演するようになり知名度が急上昇して行ったのです。

もちろんこの頃はお店に勤めながら本業のニューハーフとしての仕事もおろそかにすることはありませんでした。

そうしているうちに、カルーセル麻紀さんの心の中にどうしても本物の女性になりたい、という思いが膨らんでいったのです。

 

カルーセル麻紀若い頃:カルーセル麻紀の再出発

そうしてカルーセル麻紀さんはとうとう性転換手術を受けることを決心します。

しかし、当時の日本では法律的にそのような手術を受けることは出来ませんでした。

そこでカルーセル麻紀さんはなんとアフリカのモロッコまで出かけて行きそこで性転換手術を受けたのです。

余談ですが手術は無事成功したものの、カルーセル麻紀さんは術後三日三晩高熱にうなされたそうです。

そうしてカルーセル麻紀さんは念願の女性として本当の出発点に立ったのでした。

ところが好事魔多し。

2001年になったときカルーセル麻紀さんは大麻とコカインを自宅に隠していた、とのことで「大麻取締法」及び「麻薬及び向精神薬取締法」違反の容疑で逮捕されてしまいます。

これらの容疑はいずれも不起訴になりましたが、それ以上に屈辱的なことがカルーセル麻紀さんの身に起こったのでした。

実は、この当時カルーセル麻紀さんは戸籍上では「男性」だったのです。

そのため、抑留中の留置場では男子房に入れられてしまいました。

カルーセル麻紀さんにとってはこれは耐えがたいことでした。

しかし、もうどうにもなりませんでした。

そんなこともあって、カルーセル麻紀さんは2002年(平成14年)に自身の半生を綴った自伝「私を脱がせて」(ぶんか社)を出版するに至ったのでした。

そして2004年になるとカルーセル麻紀さんにも朗報がおとずれました。

それは2004年(平成16年)の10月に「性同一性障害者特例法」が施行されたのです。

これにより、カルーセル麻紀さんは性別の変更が法的に認められ戸籍上も女性として認められることになったのです。

親との続柄は次女となり本名も「平原麻紀」と改名することが出来たのでした。

変更の理由は

「戸籍変更ができるまでに年はだいぶ取ってしまったが、性同一性障害でずっと悩んでいる若い子たちの為にも、私のような世間に名が知れている者が申請して認められて突破口になれたらいいなと前々から思っていたから」参照:ウィキペディア

と語っていたのです。

 

カルーセル麻紀若い頃:カルーセル麻紀に降りかかる試練

カルーセル麻紀さんは戸籍変更は上手く行ったものの、こんどはとんでもない災難が襲いかかります。

2006年には、なんと自宅が空き巣の被害にあってしまったのです。

このため、宝石や腕時計など合計800万円相当の物品、現金約10万円、外国紙幣320万円相当が盗まれてしまったのでした。

この時は被害直後に自宅でインタビューを受けるなど、週刊誌やワイドショーを随分と賑わしてしまいました。

その後も不幸は続き、2011年に閉塞性動脈硬化症を患い、右足切断の可能性もあるほどでした。

幸い手術は大成功でしたが、翌年になると再び左足が同じ病にかかってしまいます。

そして再び手術を受けることになったのでした。

これも上手く行き、喜んでいたのですが、今度は2020年4月になると「脳梗塞」により緊急搬送されることになったのです。

しかし、これも発見が早く、入院して治療に専念した甲斐あって無事に回復したのでした。

このようにうち続く不幸にもめげず、カルーセル麻紀さんは人生をポジティブに送っているのです。

2021年時点でもテレビやラジオを中心に幅広く活躍し、舞台などではお笑い交えた歌謡ショーでも女性らしさを失わずピンヒールを履いて舞台でも大活躍をしているのです。

2024年の9月には人気テレビ番組の「徹子の部屋」にも出演されるカルーセル麻紀さん、いったいどんなお話をしてくれるのか楽しみですね。

 

カルーセル麻紀若い頃のまとめ

大平洋戦争の真っ最中の昭和17年に誕生したカルーセル麻紀さんは男の子(9人兄弟の第5子)として生れましたが、自身は女の子でいたい、といつも思っていました。

でも家族はそんな思いをお母さん以外は誰一人理解してくれようとはしませんでした。

特にお父さんは厳しい人でカルーセル麻紀さんのそんな気持ちには全く振り向いてくれません。

でも、お母さんだけは麻紀さんの気持ちを理解してくれた唯一の人でした。

お母さんは麻紀さんに「その世界で一流の人になりなさい」と励ましてくれたのでした。

14歳の時に三嶋由起夫の文学に触れ、丸山明宏さんの存在を知り、自分が本当に生きる道を探るためにわずかなお金を手に家出をして札幌を皮切りに全国を渡り歩いたのです。

そして大阪にたどり着いたのです。

ここでカルーセル麻紀さんは自分の生きる道を確立することが出来たのでした。

今、カルーセル麻紀さんは芸能活動を続けながら性同一性障害者達の自立の先駆けとなり、そのような人達に寄り添うことを忘れませんでした。

そしてあれだけ厳しかったお父さんもカルーセル麻紀さんが歌手として成功してからは麻紀さんのレコードを何枚も買い求めていたのです。

父の死後、麻紀さんは父の部屋から何枚もカルーセル麻紀さんのレコードが出て来たの知った時、父に対する恨みはスッカリ無くなりました。

今ではあれだけ嫌っていた父に感謝することを忘れませんでした。

大東亜戦争の真っ最中に生れ、激動の戦後を生き抜き性同一性障害者に寄り添う人など誰もいなかった時代を生きて来たカルーセル麻紀さん。

そんなカルーセル麻紀さんも今では家族との確執もすっかり無くなり、「今の私があるのは両親と兄弟姉妹が私を陰から支え続けてくれたおかげ」と感謝を述べているほどです。

波瀾万丈の人生を生き抜いて来て80代になられたカルーセル麻紀さん、今は静かに平穏な余生を送っておられますが、いつまでもお健やかにお過ごし下さいと祈らずにはおれませんね。

最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました。

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