萬田久子さんは今シニアと呼ばれる世代になっていますが、短大生の時にミス・ユニバース日本代表に選ばれ、そのプロポーションは今でも19歳の時とほとんど変わっていません、今回はそんな萬田久子さんの実家に焦点を当てて過去を見ることにより、その魅力の秘密に少しでも近づくように、調査してみました。是非最後までお読み下さいね。
令和の美魔女だね
萬田久子実家の序章
萬田久子さんは1958年(昭和33年)4月13日生れの66歳です。
元日本ミス・ユニバース日本代表にまで選ばれた、美女の誉れ高い萬田久子さんも今はシニアと呼ばれる世代になりました。
しかし、ベテラン女優としての円熟味にますます磨きがかかり、私達の目を楽しませてくれています。
そんな萬田久子さんは一体どんな育ち方をしたのでしょうか。
その生い立ちや実家、学歴など気になりますよね。
そこで今回は萬田久子さんの歴史を調べて見たいと思い記事にしてみました。
萬田久子さんが生まれた実家は大阪府大正区であったそうですが、そのルーツは愛媛県八幡浜市保内町川之石です。
元々萬田久子さんの曾祖父は愛媛県の川之石で漁師をしていましたが、明治42年に海難事故で亡くなってしまいました。
そこで萬田久子さんのおじいさんである萬田要蔵(まんだようぞう)さんは一家を支えるために大阪に出て印刷工場で働き始めました。
要蔵さんは結婚もして子宝にも恵まれ、自分で印刷工場を経営するまでになったのです。
しかし、戦災で工場は焼失してしまい、要蔵さんはその後失意のうちに亡くなってしまいました。
その萬田要蔵さんの長男が萬田久子さんの父親の萬田栄久(まんだえいきゅう)さんです。
萬田久子さんはその事実は全く知らなかったそうです。
親はあまり自分の生い立ちなど子どもに語りたがらないものなんでしょうね。
萬田久子さんのお母さんは「孝子」さんといいます。
孝子さんは大阪府大正区で、材木屋に勤める両親奥地保市(おくちやすいち)・きり夫妻の3女として生れました。
大東亜戦争(大平洋戦争)が始まると戦争の激化にともない、萬田久子さんのお母さんである孝子さんは母方の実家のある三重県井田村に疎開します。
終戦後も孝子さんは井田村で暮らし、新宮市にある女学校に進学したのです。
当時の新宮は紀南のファッションの中心地的存在でもありました。
元々高身長でスタイルの良かった孝子さんはファッションにも興味を持ち洋裁学校へと進学して市内の仕立屋さんで働き始めました。
萬田久子実家:萬田久子の両親のなれそめ
そして昭和32年に知人のつてで大阪の男性と見合い結婚をしたのです。
その夫となったのが萬田久子さんのお父さんの萬田栄久(まんだえいきゅう)さんでした。
お父さんは見合いの席でお母さんを一目見たときから、孝子さんが美人で都会の女性に劣らないファッションセンスの良さやそのプロポーションに完全に一目惚れだったそうです。
そして翌年(昭和33年)に萬田久子さんが生まれました。
そこでお父さんはもっと収入を増やすために、転職して中央卸売市場で運送業を始めるようになりました。
お父さんの始めた運送業は当時の経済成長の波に乗り、経営は順風満帆で収入も増えていきました。
お母さんもお父さんに負けじと洋裁の仕事をするようになります。
お母さんの得意の洋裁を生かして近所の人達の注文を受けて洋裁の仕事を続けました。
その頃、萬田久子さんの着ていた洋服はすべてお母さんの手作りだったそうです。
萬田久子さんもお母さんが作ってくれる洋服には大変満足していました。
お母さんは女学校時代から当時の若い女性たちよりもファッションのセンスにかけては一歩も二歩も先を歩んでいたのです。
そんなお母さんの影響を受けて、萬田久子さん自身も中学生になった頃から。ファッションに興味を持つように成って行きました。
萬田久子さんもどちらかと言えば身長は168cmで女性の中では高い方になりますね。
なので、萬田久子さんのファッションセンスの良さは母親譲りなんですね。
萬田久子の実家のあった大正区とは
萬田久子さんの育った大阪府大正区は大阪24区の一つで区の周囲はすべて河川で囲まれているという珍しい地区になっているのです。
大正区は埋め立て地が多く、そのほとんどは大正時代末期に完成して現在の区域が確定しています。
そのために大正区には橋梁が沢山あるという特徴があります。
また今だに、渡船が存在する唯一の区となっています。
萬田久子さんもこの渡船を利用した事があるかも知れませんね。
大正区という区名は1915年(大正4年)に出来た「大正橋」に由来するそうですよ。
また大正区には沖縄からの移民が多いのも特徴の一つになっています。
その理由として挙げられるのが第一次世界大戦後に沖縄から大阪に移り住んだ人が多かったためです。
大戦後に訪れた不況により、沖縄では食糧難も起こり、そのために仕事を求めて沢山の沖縄の人達が大阪にやって来て大正区に住居を構えるようになったためでした。
そうなって来ると当然のように地元民からの差別を受けることもありました。
沖縄出身の人達は互いに助け合い協力しあってコミュニティを作るようになったのです。
そして平尾本通商店街のような沖縄色の濃い街が出来上がったのです。
しかし、今では地元の人も沖縄出身の人達も仲良く暮らしているのです。
そんな理由から萬田久子さんも小さい頃から沖縄が大好きだったそうです。
現在、大正区には約7万人の区民がいますが、そのうちの約25%が沖縄出身者となっています。
そのためリトル沖縄とも呼ばれているのです。
萬田久子実家:萬田久子の現在
萬田久子さんの現在の住まいは大阪ではなく、東京に住居を構えています。
都内の高級マンションで一人住まいをしているようですね。
萬田久子さんには佐々木力(ささきちから)さんという内縁関係にあった夫がいましたが、2011年に病没されています。
この佐々木力さんという方は当時「リンク・セオリー・ジャパン」という会社の社長をやっておられた方で総資産が150億と言われるほどの富豪でありました。
萬田久子さんは1987年、29歳の時に不倫関係にあった佐々木力さんとの間に男の子を出産しています。
佐々木さんが離婚してからも籍を入れることはなく、萬田久子さんの長男と一緒に暮らし、事実婚を続けておられたようですね。
そんな萬田久子さんですが、1987年にミス・ユニバース日本代表に選ばれてからは、「歳をとってもずっと綺麗でいたい」という思いがあったそうです。
事実、萬田久子さんは今でもその美貌は衰えることを知りません。
昔と同じように、洋服も和服も実に見事に着こなして昔と同じロングヘアーでスレンダーな抜群のプロポーションを誇っているのです。
インスタグラムにおいてもフォロワー数がなんと8.9万人という数字を誇っています。
そんな萬田久子さんですが、今では年輪を経て女優としての演技の幅は大きく広がっているのです。
2時間ドラマでも、時代劇でも主役、脇役にかかわらず、どのような役柄でも見事にこなせる女優として成長しているのです。
萬田久子実家のまとめ
萬田久子さんの実家というテーマで今回の記事は進んで来ましたが、実家だけに限らず現在の様子も紹介してみました。
萬田久子さんは「帝塚山短期大学」在学中の昭和53年にミス・ユニバース日本代表に選出されました。
同年7月にメキシコのアカプルコで開催されたミス・ユニバース世界大会に出場するという栄誉を担いました。
それまでは大阪大正区の実家で暮らしていましたが、ミス・ユニバース世界大会に出場後に芸能界に入るため上京して、タレント活動を開始したのでした。
芸能活動を始めてからの萬田久子さんの活躍はめざましいものがあります。
タレント活動を開始してわずか1年後の1980年には有名女優としての登竜門とも言われるNHKの朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」の主役として女優デビューを果たします。
今ではその役柄の幅の広さを裏付けるようにサスペンス、時代劇、家庭の主婦、どのような役でもそつなくこなせる数少ない女優の一人として成長しているのです。
活躍の場はテレビドラマ中心ですが近年ではバラエティー番組にも出場することが多くなっています。
そして、そのスレンダーなプロポーションと豊かなロングヘアーで今だに男性ファンを虜にしているのです。
私生活においては紆余曲折がありましたが、今ではきままな独身生活をエンジョイしていらっしゃるようですね。
幾つになられても本当に素敵な萬田久子さん、これからもいつまでも芸能界で光り輝く存在で居続けてほしいものですね。
最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました。
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