吉本興業で大人気のお笑い芸人島田珠代さんは旦那様を病気で亡くされた後娘さんを引き取り育てましたが強烈な反抗期にも娘さんと正面から向き合って来ました。今では娘さんとの強固な絆で結ばれているのです。娘をしっかりと育ててくれた旦那様に島田珠代さんは感謝を忘れることはありません、今回はそんな島田珠代さんの旦那様と娘さんを育てたお話をまとめてみました、ぜひ最後までお読み下さいね。
島田珠代旦那の序章
島田珠代(しまだたまよ)さんは1970年(昭和45年)5月10日生れの54歳、吉本興業所属のお笑い芸人です。
大阪府吹田市出身で大阪成蹊女子高校に在学中の時にテレビ番組の素人参加コーナーに出演したのがきっかけで17歳で吉本興業入りをします。
島田珠代さんが全国的に知られるようになったのは吉本興業が東京進出を果たしてからでした。
22歳の時に当時の人気番組タモリがMCをつとめる「笑っていいとも!」金曜日に出演。
その後1997年になると「超!よしもと新喜劇」に出演して「山田花子(やまだはなこ)」さんと共にその名前は全国区へと広がりました。
2005年に吉本興業東京支社に所属していた社員と結婚しましたが2005年に離婚しました。
そして2006年から大阪の吉本興業に復帰して活動を始めます。
吉本興業が台湾で行った公演の際には台湾のマスコミで島田のような綺麗で若い女性がどつかれ芸を披露するのというような例は台湾には全く無くて当時の台湾マスコミを騒然とさせたのでした。
若くて綺麗というのあくまでも台湾での表現だそうです。(^_^)
2007年になると名古屋の中部日本放送(CBC)が制作したドラマ「湯けむりウォーズ」に出演した際に知り合った美術制作スタッフと交際を始め名古屋で婚姻届を提出して再婚します。
この時は島田珠代さんは30代半ばのことでした。
そして2008年6月に第一子となる女児を出産しています。
その後大阪に戻り舞台活動を再開しています。
島田珠代の旦那と癌
結婚生活は順調で幸せな家庭生活を営んでいましたが、突然二人にアクシデントが襲います。
それは夫が健康診断でステージ4の癌が発見されたのです。
直腸癌でした、そして余命5年と宣告されてしまったのです。
夫はそのため名古屋の会社で働くことが出来なくなり家族で大阪に戻って暮らすことになりました。
そして夫は大阪のとある会社で働き始めました。
しかし名古屋愛の強い夫はどうしても大阪に馴染むことが出来なかったのです。
その頃は抗がん剤の影響もあり、精神的なバランスも崩れがちであったと言います。
そのため珠代さんの母親が泊まり込みで家事を引き受け幼子の世話もしてくれていましたが珠代さんが仕事で夜遅くなることが多く夫と島田珠代さんのお母さんがぶつかることも多々あったそうです。
夫から食事について文句を言われることもあり、お母さんもそのことでカチンと来ることがあったのです。
大阪のおばちゃんと名古屋人・・・これはなかなか合わせるのが難しかったのかも知れませんね。
こんなことが重なって、徐々に家庭は壊れ始めて行ったということです。
そうして夫婦げんかも頻繁におこるようになって来たのです。
この頃は娘も2歳になり、夫婦げんかを見せるのは子どもにも良くないのは当然でした。
島田珠代旦那との別れ
そのため島田珠代さんは夫の主治医が名古屋にいたため、一度名古屋の戻って暮らしてみる?と聞くと夫は
娘を名古屋に連れて帰り、君とは離婚したいと切り出されたのです。
まさか娘まで連れて帰るとは思っていなかった珠代さんは頭が真っ白になりました。
しかし余命の少ない夫の言葉に折れて夫の意見を飲んだのです。
その時は泣く泣く娘を手放しましたが2週間に一度は娘に会うことを約束したのです。
しかしそんな生活はその後10年近く続くことになりました。
夫が娘を連れて家を出る時はさすがに島田珠代さんも涙を抑えることができませんでした。
遠ざかる車の窓から娘も珠代さんを見ながら泣き叫んでいたそうです。
まさに身を引き裂かれる思いとはこのことですね。
この日も新喜劇の舞台に立った島田珠代さんはお客様をすごく笑わせないといけない役だったのです。
こんな辛い思いをした直後にお客様を笑わせないといけないとは。
本当におかしな商売なんだな、と思ったそうです。
そして余命5年と言われた島田珠代さんの夫はそれからまだ10年間生きたそうです。
夫は生きているときに「僕が生きているうちは娘が20歳になっても30歳になっても名古屋から外には出さない」と言っていたのでした。
島田珠代旦那の病状
その間にも夫の病状は徐々に悪くなり、夫の両親が一緒に住んで面倒を見るようになりました。
しかしその両親も夫よりも先に二人とも亡くなってしまったのです。
娘さんはその時まだ小学校3年生の時でした。
しかし娘さんはけなげにもヤングケアラーとなって家事をこなしていたのです。
それを聞いた島田珠代さんのお母さんが珠代さんとの夫とは仲が悪いにもかかわらず名古屋に向かい夫と娘の面倒を見ると言い出したのです。
珠代さんはそれを引き留めましたが、母の意志は強く名古屋まで出向いて行ったのです。
お母さんも本当に人間の出来た人ですね。
大げさに言えば、敵地に単身乗り込んで行ったようなものですからね。
そんなお母さんには島田珠代さんは本当に頭が上がらないそうです。
そうして娘さんが小学校6年生になったときにお父さんは亡くなりました。
お母さんと夫とはその後もよく喧嘩もしたそうですが、最後はお母さんが夫を看取ったそうです。
夫も天国でお母さんには感謝していることでしょうね。
娘さんが小学校を卒業すると、こんどは大阪で娘さんと一緒にすむようになったのです。
ただこの時はまだ親権は亡くなった夫にあったので、再度島田珠代さんの報に取り戻すためには大変な労力があったそうです。
島田珠代旦那亡き後の子育て
島田珠代さんは娘と暮らすようになりましたが、すでに娘さんは思春期にさしかかっていたため子育てが思うように行かず、よく喧嘩もしたそうです。
喧嘩をして娘さんが1ヶ月も口を聞いてくれなかったこともあったようです。
- よく言われる反抗期の特徴として挙げられるのは。
- 言葉使いが乱暴になったり汚くなったりする。
- 家族に暴力をふるう、物に当たり散らす。
- 返事をしない。
- 常にイライラ状態である。
これで見ると、娘さんは「返事をしない」「常にイライラ」だった可能性がありますね。
島田珠代さんは娘さんと同居するようになった時は、子どもは親の言う事を聞くのが当たり前。
そんな感覚で接していたみたいですね。
娘が中学1年生のときは叱ってばかりいたそうです。
そして娘が中学2年生になったときに娘と大喧嘩をして2ヶ月も娘がしゃべってくれなかったそうです。
そしてある日、娘に猛反発されるわけです。
「いい加減にしてよママ!!」と娘に猛反発されたのです。
そこで島田珠代さんはそれまで娘を押さえつけることしかしてこなかった自分に気がついたそうです。
このことで「母親とは何か」ということに娘さんによって気付かされたのでした。
もう中学生にもなると、大人の領域に入り込んでいる部分が沢山あるので叱るだけではダメだということに気が付いたようです。
島田珠代旦那のまとめ
珠代姉さんで親しまれている島田珠代さんは旦那様を癌にかかってからは随分苦労の人生を送ってきました。
特に子育てについては娘さんと離れていた時期がながかっただけに、お互いを理解するまでは相当時間がかかったようですね。
子どもと離れていた期間が長ければ親として未熟になるのは当然ですよね。
何遍も娘とぶつかりながらも珠代さんはその反発を全身で受け止めていたのです。
決して娘から目をそらさず、無視せず、諦めずわからないままにもキチンと正面から娘さんに向き合っていたのです。
娘さんと喧嘩を繰り返すうちに島田珠代さんも徐々に親として成長して行ったのですね。
娘さんと衝突を繰り返しながらも今では親娘の絆は強固なものになっているのです。
なんだか迫力ある島田珠代さんの舞台を見ているようですね。
亡き夫への感謝も島田珠代さんは忘れることがありません、娘と離れて暮らしていた10年の夫の娘に対する教育には本当に感謝しかないそうです。
夫の病気のために親娘が離ればなれになるという、悲しい運命に遭遇した島田珠代さん。
しかし珠代さんのポジティブで絶対に諦めない、ブレない信念が娘さんとの絆を取り戻したのです。
島田珠代さんはこれからもよしもと新喜劇の星として輝きつづけることでしょう。
3回目の結婚も諦めていないみたいですよ(^_^)
最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました。
コメント