「いとうあさこ」さんは26歳から芸能活動を始め、40歳直前で大ブレイクしたお笑い芸人さんです。名門家庭出身でありながら、苦しい時代でも決して親を頼らなかった「いとうあさこ」さん、努力、根性、諦めを知らない、何事にもポジティブ、今回はそんな「いとうあさこ」さんの若い頃に焦点をあてて調査してみました。この記事を読んで頂くと「いとうあさこ」さんの幼い頃から芸人としてブレイクするまでの期間がわかってもらえることでしょう。
いとうあさこ若い頃の序章
「いとうあさこ」さんは1970年(昭和45年)6月10日生れの53歳です、旧芸名は「伊藤麻子」と漢字で書きました。
出身は東京都渋谷区で、職業はお笑い芸人、タレント、司会者、リポーター、女優とその活動の幅が凄く広いのですが本職はお笑いピン芸人です。
現在は中野区に住んでいます、所属は「マセキ芸能社」です。
「いとうあさこ」さんは1997年4月に「佐藤千亜紀」さんとコンビを組んで「ネギねこ調査隊」として芸能活動を開始しました。
2001年には単独で「進ぬ!電波少年」の企画で「電波少年15少女漂流記」に参加しました。
その時には仲間内では「おかん」と呼ばれてとよばれて全員から厚い信頼を寄せていました。
その後、2005年からはピン芸人として活動を開始する、ピン芸人として活動を始めた頃は、本名の漢字の名前で活動していました。
しかしその名前が「暗くて硬いイメージ」があるといい、その後はひらがなの「いとうあさこ」に変更しました。
いとうあさこ」さんがブレイクしたのは「爆笑レッドカーペット」に「朝倉南(あさくらみなみ)」のネタで出演したのがきっかけでした。
「朝倉南」は野球漫画「タッチ」に登場する架空の人物でヒロインです。
芸能界に入ったのは26歳当時でしたから、それから40歳近くにブレイクするまで長い下積みの生活があったわけですね、よく頑張ったと思います。
いとうあさこ若い頃の学歴と家庭
今回はそんな「いとうあさこ」さんの若い頃を重点的に調査して生い立ちから現在までを探ってみたいと思います。
「いとうあさこ」さんが卒業した小学校は雙葉(ふたば)小学校といい、私立の小学校です。
1910年に開校したキリスト教系の伝統ある小学校で都内では屈指の名門小学校として知られています。
「いとうあさこ」さんは実家が裕福なお金持ちで「いとうあさこ」さん自身も幼少期から頭脳明晰であったため、この小学校に入ることが出来たのでした。
またこの小学校は高校まで系列校なので「いとうあさこ」さんは高校まではエスカレーター式に進学することができました。
ちなみに皇室の「美智子上皇后」様もこの小学校の出身です。
「いとうあさこ」さんの家族は両親と兄、妹の5人家族でした。
お父さんの「伊藤新造(いとうしんぞう)」さんは東京大学法学部の出身で地方銀行の重役などを務めたことのある実業家です。
お兄さんも優秀で東京大学に進学しているほどです。
お家は裕福な家庭でしたが両親の子育ては厳しくて子供にお金を渡すことを禁止していたのです。
小遣いを沢山もらうことは出来ずに、小学校から中学校の小遣いは1ヶ月でなんと300円だったそうです。
お年玉も両親と祖父母からしかもらえずに、上限が3,000円と決まっていたそうです。
親は裕福なのに、こうなると普通の一般家庭よりも厳しいですよね。
いとうあさこ若い頃の下積み生活
そんな「いとうあさこ」さんは高校を卒業すると自分は東北大学の宇宙地球物理学科に進学したかったそうですが、(目標設定が凄いですね)当時は親に猛反対されて断念したそうです。
親は文系に進学させたかったようですね、しかし「いとうあさこ」さんは文系が性に合わないこともあって自分の進路には相当悩んだそうです。
そんな時に「尾崎豊」さんの歌に触発されて、家出をしてしまいました。
図書館に行くと言ってそのまま家出をしたそうです。
あらかじめアパートを借りていたそうでそこにうつったのでした、しかしどういう訳か3日後にお母さんに見つかってしまったそうです。
ある日アパートに帰ってみると、アパートの前に見慣れた車が止まっていてお母さんが待ち構えていたそうです。
目と目を合わせる母と娘、無言で見つめ合うだけでお互いの気持ちを察知する二人。
家に連れ戻されることはなかったそうです、居場所がわかっただけでお母さんは十分だったのでしょうね。
このアパートには妹さんも一緒に暮らした事があるそうですが、彼氏が出来ると彼氏のアパートに移り住んだのでした。
「いとうあさこ」さんはこの彼氏と別れたあと、2人の彼氏と付き合ったそうですがどれも男運の悪い運命だったそうで、合計で1,000万円以上つぎ込んだそうです。
そこから「いとうあさこ」さんの下積み生活の幕が開けたのでした。
学業優秀で宇宙物理学を目指した「いとうあさこ」さんでしたが、元々芸能界に対する憧れも小さい頃から持っていた「いとうあさこ」さん。
幼い頃には当時日本中を席巻した「ピンクレディー」が大人気の時代でした。
「いとうあさこ」さんもピンクレディーが大好きで「ピンクレディー」のものまねにはまり込んでいたそうです。
その後に人気が急上昇してきたのが「いかりや長助」さんが率いる「ドリフターズ」でした。
超人気番組のドリフターズの「8時だよ、全員集合!」を実際に舞台に見に行ったこともある「いとうあさこ」さん。
大学進学を諦めてからは芸能人として生きることを選んだ「いとうあさこ」さんは「いかりや長介」さんの大ファンで「いかりや長助」さんのかっこ悪いかっこよさが大好きだったそうです。
お笑い芸人として頂点に達した人は、悲喜劇が両方こなせるところが大好きだったそうです。
いとうあさこ若い頃に影響を与えた人物
文化放送の「おとなりさん」という番組で「いとうあさこ」さんが下積み時代に影響を受けた5人を語る場面があり語ったところによると。
前述した「いかりや長助」さん、そして「伊東四朗」さん、「カンニング」さん、4人目と5人目はドラマの登場人物でした。
これにもう1人私が勝手に加えるとしたら「坂上二郎」さんでしょうか、「坂上二郎」さんは「萩本欽一」さんと「コント55号」というコンビを組んで一世を風靡したお笑い芸人でした。
この人は俳優としても歌手としても非常に芸達者な人でした。
ちょっと横道にそれて申し訳ありませんでした。
話しをもどして、「いとうあさこ」さんが「室井滋」さんに憧れてコメディアンを目指して22歳の時に舞台の専門学校に入学ししました。
この時に前述した同級生の「佐藤千亜紀」さんとコンビを組みましたがその後解散してピン芸人としての活動が始まります。
そんな「いとうあさこ」さんはいまでは身長が162cm、体重は68kgです。
これだとスタイル的にはポッチャリタイプにはいりますよね、しかし若いころはとてもスレンダーな肢体をしていて水着姿もとてもよく似合っていたのです。
いまはポッチャリだけど昔はスレンダーな肢体を売りにしていた芸能人としては「島崎和歌子」さんなんかもその一人ですね。
「いとうあさこ」さんは元々名門家庭の出身ですから、名門でスレンダーなプロポーションをもった可愛い子を地で行っていた少女でした。
もしこれが男女共学の学校ならきっと男子学生からはモテモテだったことでしょうね。
いとうあさこ若い頃のまとめ
「いとうあさこ」さんはお笑いピン芸人として今や芸能界では引っ張りだこの活躍を見せていますが、やはりそんな「いとうあさこ」さんにも十数年の下積み時代がありました。
40代近くになってものまね芸人として大ブレイクを果たした「いとうあさこ」さん。
名門家庭に生れ学業優秀で将来は宇宙地球物理学科を目指したこともありましたが、家族に事情でそれを断念したのです。
その後小さい頃からもっていた芸能人への憧れを実現した「いとうあさこ」さん。
下積み生活が長かった時代もありましたが決して親を頼ったりはせずに、自分の夢を実現した「いとうあさこ」さんは強固な信念の持ち主でもあります。
名門で裕福な家庭に育ちながらも、苦しくても親を頼らない姿勢は立派としか言いようがありません。
「いとうあさこ」さんは化粧をしません、テレビ番組などに出演するときはほとんどスッピンで出演するのです。
自分を飾らないでありのままを見せる「いとうあさこ」さんは多くの視聴者を引き付ける素敵な魅力をもった芸人さんです。
自分の道を自分でしっかりと切り開いて来た「いとうあさこ」さん、これからも多くの人々を引き付けて笑わせファンを虜にしていくことでしょう。
今後の飛躍が本当に楽しみな芸能人の一人です。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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